chiipuri’s diary

気の向くままにつづる日々のあれこれ

ラフォルジュルネと美術館。娘との校外学習。

長年の親友に1年ぶりに会い、相変わらず共感できることが多く、喜びの共有とともに、ネガティブな感情に引っ張られる感覚を覚えた。

時代の価値観に対する違和感、周囲の人とのあまりにもわかりあえないことによる将来への不安…。

人生には明確に目標があり、成功のイメージをだれもが共有していると錯覚している周囲の人たちに執拗に干渉されつづけていて、憂鬱な気持ちから抜けないでいるようだ。

彼女が傾倒する夏目漱石を思い出し、少し尋ねてみると、近代に劇的に変化した日本の文化や価値観について、熱っぽく語ってくれた。ふっとした瞬間、その熱っぽさに彼女は笑った。わたしにはその彼女の姿が輝いていて眩しかった。

なぜ現代の抱える悩みをわかったんですかって、震えるよ…?

人から直接、見聞きしたことって、強く印象が残りますね。文体に不慣れで夏目漱石の理解云々以前に読解にチャレンジという段階ですが、近い将来読んでみたいな。

 

いつか、5月の憂鬱について、姉があまりに爽やかな気候と自分の内面との落差に落胆してしまうんじゃないか、と言っていたのを思い出し、なるほどそれはあるかもとちょっと感じた。

わたしはもっと単純な人間で、生きる希望を持つために短絡的で刹那的なものに飛びついてやり過ごそうと思っているのかもしれない。彼女の孤独を理解できないかもしれないが、救いたいとは強く思う。わたしの楽観的な部分が彼女にいいふうに作用すればいいのだが。わかったつもりになることが怖い。相手の声に耳を傾けることを大事にしたい。

 

考えるな、感じろ、という好きな洋曲があるけど、ネガティブな気もちでいるときはそれとは真逆に、感じるな、考えろ、の態度で臨んでみようかな。

この世は、考える者にとっては喜劇であり、感じる者にとっては悲劇である、という名言のように。

 

そんなことを書いていたら、わたしの好きなキジバトの声が聞こえてきて、心和む。

生きているのは人間だけじゃない。自然や生き物たちのあるがままの姿には、年を追うごとに驚きが増していき、彼らはそんな人間の感動には気がつきもせず、それがまた素敵だな、と。

 

そうそう、G・W恒例のラフォルジュルネに行ってきたのですよ。3日間、ホールのいたるところでやや短めの演奏会が繰り広げられているクラシック音楽の祭典。ラフマニノフ前奏曲23-5をいつか生演奏で聞きたいと思っていたのです。ショパンのバラード1番も同じプログラムに入っていたので迷わず購入しました。

家に帰ってからもいろんな演奏家の演奏を聴いています。

今、一番聞いている演奏はこの人の。オルガ・シェプス。やっぱりロシアか~。

 

初めてこの曲を聴いたときはすごく変わった曲だな!と思いました。

が、大人になるにつれて妙に惹き込まれる魅力をかんじます。

したたかさで豪奢、狡猾さ、疑惑、騙す騙される、だけど天晴れ!つぎつぎとアダルトな(?)キーワードが浮かび、圧倒されるんです。

そしてバイタリティを感じるところがすてき。衰えていくがゆえの憧れでしょうか…笑

 

youtu.be

 

ラフォルジュルネのあとは、せっかく都内に出たんだからと皇居周辺の芝生広場まで歩いてみました。休憩用の建物で、大量の観光バスと中国人観光客に遭遇する。娘と木陰で休んだあと、近くに美術館があったような・・と竹橋の国立近代美術館へ足をのばし、(これが思いのほか遠かった)午後8時の閉館まで粘ったあと、高層ビル群のなかを娘と歩いて大手町まで歩きました。連休中のビジネス街は不気味なくらい人がいなくて、無機的なさまが面白いですね。ネオンと国道の車の音だけがありました。

 

美術館へ向かう途中、平将門首塚を発見し、ふらりと立ち寄ったのですが、何も知らなくとも強烈な磁場と凄味を感じるところでした。慰問?参拝?客も絶えることなく訪れていました。

夜、美術館の帰りに再びその場所に遭遇したときはちょっとびびってしまいました。そしてその時間にも関わらず訪れる人が絶えなかったことにも驚きました。