読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

chiipuri’s diary

気の向くままにつづる日々のあれこれ

情報と時間の追いかけっこ

薬局の待合室で何気なくラックにあった雑誌を手にとる。

レシピが掲載されている生活情報誌が多く、たいてい読んだものは全部ほしくなる。

雑誌名だけ覚えておいてあとで買おうと思うのだが、たいていは(というかほとんど)本屋に訪れたころには見慣れない表紙に様変わりしている。

という経験を何度かしているので、いいかげん学習したらとこの間2,3日後に本屋を訪れたが、…なかった。そっか、月終わりだったかー…

月をまたぐときは要注意ですね。

そういえばラジオでも関連するようなことが起こっていた。

昔はラジオで好きな感じの音楽が流れていたり気になる情報があるとすぐにサイトで調べていたけど、最近始まったタイムフリー機能で、一週間過去まで遡っていつでも好きな番組が聞けるようになったんですね。するとどうなったか。ちょっと聞き逃してもあとでまた聞けばいっかとなり、そしてまたあれもこれもいいな、あぁあとでチェックしよ…となり、ほとんど全部、忘れるのです。猶予があると油断するのでしょうか。まるで車窓からの眺めを見ているかのよう。つぎに思い出したときにはすでに一週間が経ち、タイムアウトしているのです。おいおいどんなタイムラグなのだと突っ込まれるかもしれませんが、自分のなかの奇妙な現象。一週間もあるのに今までより情報が入手困難になってるなんて…

 なんかね、最近情報に囲まれ、それらに関連して自らの動きが全体的に機械っぽくない?と思うのです。情報とひとくくりにいうと無機的だけどほんとはそうじゃないんだけどね。あまりにたくさん取り入れようとするとひとつひとつの情報の価値みたいなものは軽く、薄くなっていきますよね。情報処理装置になっているような違和感、ちょっとこころに留めておきたいと思います。過渡期には変化に気づきますが、そうなってしまうとその気づきさえなくなってしまうから。

すぐお手軽にテレビ番組予約をしてしまい、いつのまにか恐ろしく増えて容量がいっぱいになるのもちょっと似てるかな…?時間がたつと熱が冷めて消去する番組が多いので、そうなると録画予約と、消去がどこか作業っぽい。(笑)どこか見ることも消化という作業に思えてくる感覚がなくもない。常に頭のどこかで在庫(未視聴)を気にしてて、消化が追いつかず増え続けることもうっすら承知している…。その地味な重圧。ってストレスになってちゃ本末転倒だよねー。地味なストレスもチリツモ(チリも積もれば山となる)ですし。

でもそんなアップアップな人がわたしだけでなくもしかしたらほかにもいるのかもと思うと、あっこれが情報化の時代が生んだ煩悩のひとつなのかもなと。上手に取捨選択したいものです。

あと、人との間において(ってとらえ方がキカイっぽい・笑)情報を知っていること・いないこと(だけ)に必要以上に過敏になるのはつまらないことだよね。これはいまの時代にかぎったことではないかもしれないが。より情報が多く入手できる時代になったからこそ、ひとが情報収集に躍起になる結果を生んだだけだったとしたら(それは暴論ちゃいますか)ちょっとかなしいよね。

情報へのアクセスがカンタンかつスピーディになった時代だからこそ、インプットだけでなくじっくり自分の頭で考えることはあるか、たまには自問したいと思います。

ここ10年いや20年?(大ざっぱか)で急激に情報化が進んだ感じがしますので、改めてそう考えると情報の取扱い方に戸惑う人がいてもおかしくないよねと。(それが私)

情報に振り回されてるかもとはっとした、ごくせま~い生活圏内での、昨今の雑感でございました。散漫な文章で失礼いたしました!

それでは、またね。

追伸。

あーラジオでやってた「ユーモアについての海外事情」、聞きたかったなー。←まだ言ってる

あ、情報過多過多いうんならまずラジオ消せって話?